私は腐ってきた!ドゥームのその先を探して
いつの間にか何もできなくなっていた。意識は明白で物事を考えることを延々と繰り返す。しかしそれを体の外に出そうとすると朦朧と霧散してしまう。その繰り返しをここ2、3年繰り返してきたように感じる。学問の道を進む過程において、私は社会規範を疑い相対化し、労働の倫理/道徳を失い、資本主義経済でとても重要な個人の価値への絶対的な信心を失い、今や何かを欲する欲望さえも消え、もはや生きることへの執着も失っている(これは死にたいということではなく諦念に近い心情)。一人隅田川のほとりで出家しているような状況。唯一、踊ることと音楽だけが欲望として残り、それが社会から離脱しないよう楔として打ち込まれている。それでも満足して最低限の生活費のために、ギグワークやフードデリバリーを生業に何とか食い繋いできたが、それが回らなくなってきた。単純に経済的に貧しくなってきたのと、もはや物質的な身体の在り方が朽ちかけていることを感じているからだ。心と体が分離し始めている。私はこの世界の居住者であることを忘れ、観察と物思いに耽ることで、もはや身体は自分が真に欲するものに反応しなくなっていることに気づいた。もはや自己実現の倫理も解体されどこに向かえばよいのかを見失った、まさに’ドゥーム’している状態といえる。身体は思考よりも重たく遅くて扱いづらい。思考は無限に飛び回りなんでもできるにも拘わらず、体は未だ社会生活にまつわる諸々の柵に囚われている。そのことに2、3年の時を経て気づいたが、今となってはもう元には戻れない。物理世界に意味や価値など存在しないという科学的事実が存在するからである。けれど身体はその事実に抗っている。矛盾によってさらに心と体は離れていく。これが私が認める私存在の在り方なのか。私は資本主義経済の倫理/道徳への信心を失ったが、身体は尚それに帰依する。
しかし結局のところ、ただやらなければならないこと及びやりたいことをほったらかして、自分の内側に籠っているだけなのかもしれない。今も椅子から崩れ落ちて座面を背にしてPCの画面を見上げながら、だらしがない姿勢で文章を書いている。背筋肉も衰え、物事をやり抜く筋力も衰えているだけだ。それでいいじゃないかと思う自分もいれば、いやそれではだめだ、社会をもっと生き抜かないと、人生の「やりがい」を持たなければならないと考える自分もいる。そこに中途半端でモラトリアムな、辛気臭くてかっこをつけた奴だ等と、何の意味もない客観視点が入る。全てが腐っている。そしてさらに正直になれば、「もうフードデリバリーしたくないし、金もないし、なんか楽しくない!」というだけである。ではどうやってここから脱出するか。どこかに就職するのか?それもしたくない。ここまでの経験的に協調した労働で上手くいったためしがなく、それで失敗して毎回精神的な傷を負うことを繰り返している。そうこう考えると人生がどん詰まりなような気分になってくる。
この状態は典型的なドゥーマーの症状で、現代社会における再社会化もできずしかし絶滅もできない中途半端な状態をさまよう物質の動きである。宗教や集団的伝統が維持あるいは押し付けていた倫理を失った、エマニュエル・トッドが言うところの宗教ゼロ状態を体現した低所得階級の典型的振る舞いである。この状態を抜け出したいと思う反面、資本社会で自己の価値さえも貨幣等価に置き換えてしまう社会の強制力に屈するのも尺な気がしてきたため、もういっそのことドゥームしながらドゥームとは何なのかよく観察して記述したほうがいいのではないかと考え始めた。とりあえずもうフードデリバリーが嫌すぎるので他の生業を見つけたい。今は趣味でずっと続けている「Rust製の用例採集機能付きPDFのレスポンシブビューワー(英語版)」をもうとにかく完成させたい。てかどうやって仕事って作れるのかわからない。とりあえずこの文章のような自己感傷に浸っているみたいで、浪漫主義の辛気臭い文章をいかにもっと人間みを排除して観察と思考を洗練させるかを目標に毎日文章を書こうと思う。 そしてドゥームのその先に何があるのかを見つけたい。